自己顕示欲の不法投棄

捻くれが酷く、思考が歪んでいる新津です。
そんな私ですが、好きなものは沢山ある訳で…
ネットの海に自己顕示欲を不法投棄しようと思います。

行先表示器がLEDに変更された205系です。当時はLEDがガビガビでも特に変に思うことは無かったのでした。
この頃は、駅先で撮影することも多かったです。イベント列車は別でしたが…

この頃から115系を始めとする近郊形車両に興味を持つようになりました。
形式全体では数多く車両が残っている状況でしたが、引退が視野に入るようになり、各地でリバイバル塗装が徐々に行われるようになる頃でした。

父に無理を言って、新潟の鯨波にて撮影した初代新潟色です。
当時は運用の流れなど、さっぱり解らず、〇〇の××系△△塗装が復活運転などと書かれた列車の撮影によく向かっていました。

復刻運転の列車の前後で来た、定期の列車です。
よく見るとATS-Pの表記が無い、新潟生え抜きの車両だと分かります。
サボ差しの有無など、調べると面白いですね。変に個体差に厳しい人が居るのも納得です。

この頃は一人で撮影に行く機会も増えてきました。
受験が終わり、18きっぷ片手に色々な場所に撮影しに訪れていました。
アルバムを振り返ると、撮影技術やカメラの知識…様々な部分が欠如していて、駄写真を量産していました。

豊田の189系の引退が迫り、よく沿線に出向いていました。
春先で寒く、毎回のように「二度と行くものか」と心の中で叫んでいました。

良くも悪くも、写真撮影の楽しさを教えてくれた車両だったと思います。

豊田の車が引退し、その後は長野の189が波動用で活躍していました。
HMも搭載されており、撮影していてとても心が躍る瞬間を何度も与えてくれました。

これは巻き取りきが故障しただとかで、誤幕で来てしまった奴です。
ある意味、ラッキーな場面でした。

M50はホリ快を含めて、とてもお世話になりました。
HM続きで載せました。

新子安で撮影した185系です。OM編成の写真だらけです。
余談ですが、MLながらを利用する際はOM編成を好んで利用していました。
足元に凹みが有るか無いかで大分、快適さに変化がありました。今となっては過去の話です。

友人と撮影できそうな場所を探し、無事に撮影することが出来た1枚です。
この時に人に頼る・話し合いを行う重要さに気が付くことが出来ました。

地元の車両が旅立つ、複雑な心境で撮影していました。
上越線なんかでも撮影したかったのですが、資金難で断念。
気が付けば、新潟経由で輸出していたのが千葉からの輸出に変わっていました。

SLが前倒しで検査入場するだ何だで、DE10が磐越西線を駆け巡っていました。
DLばんえつ物語に乗車した際は、驚くほどに低速で走行していて衝撃を受けました。
その分、沿線の景色や駅での見送りなど、通常では見られない景色を見ることが出来ました。
この時に、鉄道って地域に愛される対象なんだなって感じることが出来ました。
この経験から、趣味的に一辺倒に好き、だけでなく、徐々に仕事として考えるようになりました。

越谷レイクタウンでの撮影です。列番表示がガビガビですが、当時はそれで満足できたのです。

サフィール踊り子デビュー初日に撮影しました。
185系も引退が決まっていましたが、波動用として今後も活躍すると思われていたためか、そんなにカメラを構えていた人は居ないようでした。

コロナが大流行して、外出自粛を求められていましたが、ロンチキが撮影したくて、コッソリと撮影していました。
この時は田端のPFは廃車だろうと考えていて、何とか撮影しようとネットを彷徨っていました。

某艦隊ゲームのリアルイベントが行われた関係で、富士スピードウェイへ…
その際に寄り道がてら、三島で撮影。

リアイベ、とっても楽しかったです。
しかし、残念なことに就職してから徐々にゲームへの熱が冷め、気が付けば何をするのも楽しさを感じなくなっていました。

就職活動の息抜きで、平日に撮影に出かける機会も増えました。

新車の配給は個人的に好きで、暇さえあれば撮影に行っていました。

有難いことに高崎からPトップがわざわざ新小岩へ
この話を聞いたときは「ガセだろう」と笑っていたものの、高崎から田端躁に送り込まれたなどの話を聞き、無理やり日程を開けて撮影に向かいました。

なんとか就職活動を終えて、意気揚々と撮影に挑み始めたのも、この頃です。
まさか、こんなに仕事が嫌で、給料も安く、地獄を見るとは…当時、思ってもいませんでした。

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令和5年10月8日

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